【75】終わらない学習

米田 健

 まずはゲーム作りの本質をちょっと考えてみましょう。持論ですが、ゲームとはプレイヤーに新しい体験を与えるものです。探検と発見、勝利、危険を潜り抜けるスリル、恐怖、達成感。こうした感情を刺激することを目的としています。こうした体験を作るために僕たちクリエイターは情熱や時間、愛を投資して、新しい何かを生み出そうとします。今まで誰も体験したことがないようなものを目指しているのです。

 これを行うのは天才であり、他と比較して天才を多く誇る我が業界でも、その究極の目的はなんら減衰することなく輝いています。もっとも僕のような実績のない、凡庸よりの人間にとって、人類の新境地を切り開くような何かを生み出すことは荷が重すぎます。せめて何か新しい体験を作ることで、その頂きに少しでも迫ろうと努力しているのです。

 こういったささやかな新体験は学習の一種と私は考えています。

 この学習というのは一見すると一歩ずつ積み重ね、築きあげていく、周りの世界から知識を蓄えていく作業に見えます。誰もが学校で時間軸に沿って知識を積み重ねてきた経験があるので、このような考えは理解しやすいのです。しかし、僕の考える学習の本質とは、積み木のように順序正しく積み重ねていくことはできないものです。端的にいうと学習とは破壊的な行為であり、理解と知識の攻防です。それを行うためには多大なエネルギーと、自分の弱さをさらけ出す危うさが必要となるのです。新しいもの、自分と異なる視点や見解を知ることは自己の認識と価値観とのぶつけ合いとなります。学習とは、自己の変容を促す運動であり、それは傷と痛みを伴う動作なのです。

 学習とは、それまでの知識と価値観、自己の認識への挑戦です。異物は敵視され、攻撃されます。学校の勉強の中にも、つい去年習ったことでさえ、最新の事実や最先端の研究を踏まえておらず、一度その本質を知ってしまうと、疑問視したくなるような内容がたくさんあります。特に科学や数学では、それまで学んだ「常識」がなぜ不正確であるか、徹底的に反証し続ける例が多く見られます。音楽や絵描、映画でも同じです。ロック・ラップ・ブルースにジャズ。ゴッホ・ピカソ・ポラック。それまでとは異なる新しいものを生み出し、激しい否定を受けた芸術はその後、新しい芸術として受け入れられ、一般文化へと消化されていきました。

 ゲーム、またはインタラクティブエンターテインメント。歴史も浅い我々の産業は他の文化形態から手法を借り、盗用し、打ち捨てては、再利用をしています。ゲームは映画でも、絵描でも、音楽でもありません。新しい表現方法の中で新しい価値観を構築して、良し悪しの評価を行う、非常に創造性が高い業種となっているのです。だからこそ、この世界では学習が何よりも必須な技能と素養になるのです。なぜなら学習とは新しい何かを追い求め、失敗のリスクを秘めた冒険をするということだから。学習というのは欲を持って、現状に満足しないことだから。こうした攻撃的に、自己をぶっ壊す勢いがなくなったら、クリエイターは自己を守るだけの、保守的な存在になってしまいます。そこから、プレイヤーに新しい体験を提供することができるでしょうか?

 僕たちは結局、学習で自分の一部となった物は無駄にはならないという信念があって、無節操に知識を拾い集めているのかもしれません。ムダ知識と呼ばれがちなものも、新しいことを学ぶための理論武装の 1 つとなるのだから。学習はいつ、どこで起きるのか予測できないものです。だからこそ、唐突な学習体験を否定することで苦痛を得るのではなく、筋肉痛をほぐすストレッチのように受け入れ、ささやかな気持ちよさを感じてみませんか。そのためにも、僕達は絶えず学び続けることが必要だと思います。それでこそ僕達は「楽しさを作る」という世界最高の仕事を、楽しみながら続けていけるのだから。