【58】「普通でないこと」を実現する複合技術者であれ

白井 暁彦

 近年、とあるゲームプラットフォーム R&D のトップと、ゲーム産業において「何が研究(Research)で何が開発(Development)なのか?」についてディスカッションしたことがある。

 すぐに役立つことは陳腐化しやすく、陳腐化しにくいものはすぐに役立たない。これは「当たり前のこと」である。

 ゲーム開発者への就職を希望する若い学生は、とかく「すぐに役に立ちそうなスキル」を求める。人材市場にもそのような面がある。しかしながら、1 ~ 2 年で習得・育成できるスキルというものは、1 ~ 2 年以下で陳腐化してしまうものである。それは、「陳腐化」そのものの定義であり、ゲーム産業に限ったものではない。後進の若い才能が次々と現れ、誰もが真似できてしまうのであれば「陳腐化するべくして陳腐化する」のである。

 一方、ゲームは人々の楽しみという不明瞭な目的に複合的な技術が収斂する技術(converging technologies)である。思考実験として、技術について「普通の技術」と「普通でない技術」に分解してみよう。

 例えば人々が熱狂し興奮し「何時間でも遊んでいたい」と思うゲームを作るためには、安定で高速なエンジン、一分の隙もない緻密な作り込み、入念なテストなどが必要である。これは、もしかすると既存の技術の延長にある質の高い「普通の技術」に属するものであるかもしれない。一方で、人々の目を引く映像技術、興味・購買意識を向上させるような新しいインターフェースや体験といった技術は「普通でない技術」と仮に分類してみよう。

 普通の技術に対して「普通でない技術」は、abnormal ではなく not normal な技術である。世界最大の CG・インタラクティブ技術の国際会議 SIGGRAPH ではこのような技術に対するデモセッション「Emerging Technologies」があり、日本人の触覚や新奇なインタラクティブ技術の研究は高く評価されている。この種のデモに対して世界中の人々は「Awesome」とか「Amazing!」といった驚嘆の声をもらす。「普通の技術」ももちろん重要だが、それは技術の積み上げや品質に対しての評価であり、「Excellent」という評価になる。

 2006 年に任天堂 Wii(コードネーム Revolution)が発表されたとき、誰もが新しい体験に夢や希望をはしらせた。しかし実際にサードパーティから製品になったもののほとんどは、加速度センサーをデジタルなボタンに置き換えたエクスペリエンスばかり。もちろん高度なモーション認識アルゴリズムをミドルウェアとして提供した企業も存在したし、複雑なモーション認識を実装しすぎて、開発者以外はマトモに遊べないような UI を作ってしまったエンジニアもいた。最も残念な例は格闘ゲームで、せっかくプレイヤーが全身で「馬鹿みたいな必殺技」を繰り出したいのに、誰でも思いつくような「勝ち負けしかできないゲームデザイン」になっている例だ。せっかく UI エンジニアが「普通でない面白いこと」を考えているのに、プレイヤーまでを巻き込んだ開発チーム全体がそれを実現にたどり着かせていない。

 ゲームにおける R&D はとかく D(開発)に寄りがちである。学習(Learning)カーブが高い、最高の頭脳を集め、普通の事を効率よくできる人間を集めなければ、この開発競争には勝てない。しかしながら、企業活動はそうかもしれないが、エリート的な一本槍で、ゲームエンジニアは「一生喰える」のだろうか? ゲーム産業自体が「当たり前の体験」しか製品に打ち出せないなら、ユーザーの想像力も、それを上回ることを期待できないのではないだろうか。

 48 時間で見知らぬチームでゲームを開発する Global Game Jam(GGJ)や、国際学生対抗バーチャルリアリティコンテスト(IVRC)などは、「可能かどうかわからない可能性」について、期間限定で全力において取り組む R(調査), Study(研究)そのものである。

 我々は銀行 ATM のような、何十年も変わらないようなシステムを扱っているのではない。いや、銀行 ATM だって、新しいエクスペリエンスがあってもいいはずであるし、「普通の ATM を使いたい人」もいるだろうけれど、「普通でない ATM を使いたい人」も存在していいはずだ。むしろ、それが「ゲームプレイヤーという人種」なのではないだろうか?

 普通でないことを実現する複合技術者であれ。

 それがこの産業を面白くする最善手である。