【39】いまだ、逆水平を決めろ

川村 泰久

 ゲームについて語るとき、オールドファンは「枯れた技術の水平思考」でおなじみの考え方を振りかざします。

 たしかにゲームシステム、たとえば競技性や経済やルールのおもしろさを洗練させれば素晴らしいゲームが生み出せるのは正しい。その意味で高いハード性能や最新の映像表現や技術に頼らなくてもよいのは真実でしょう。

 しかし逆もまた真なりです。高いハードスペックや大容量、多彩な表現手法や技術の先にもゲームの新たな地平はあるのです。

 実体験として『バイオハザード』というゲームの話をします。

 俺は『バイオ 3』に企画として参画し、三上真司さんという素晴らしい師匠を得ました。まあ、優等生じゃありませんでした。そのちょっとした罪滅ぼしに、俺が三上さんから教わったここをここに共有します。

 あるとき三上さんは駆け出しの俺にこうたずねました。

 「ゾンビをステージにセットするとして、その体力をどのくらいに設定する?」 と。

 主人公の標準装備は拳銃です。拳銃を構えて撃つ間は移動できません。拳銃はパン、パンと一定間隔でしか撃てません。ゾンビと主人公は同時に相手を捕捉するとしましょう。

 さて、理想的なゾンビの体力はどの程度か。

 まず「ゾンビが前進し、主人公に噛みつくか噛みつけないかのギリギリで死ぬようにする」という答えがあります。プレイヤーがハラハラドキドキする所までゾンビは接近するも、噛みつく直前で力尽きて倒れ、主人公がほっと安堵する塩梅にする。

 これはアクションゲームとして考えたときには至極まっとうな回答です。——おわかりだとは思いますが、これは「バイオでは不正解」です。正しくは「主人公へ 1 回かじりつき、振りほどかれた後にもう一発撃ち込まれると死ぬ」程度にゾンビは調整されるべきなのです。

 「バイオはゲームである前にサバイバルホラーなんだ」と、三上さんは言いました。

 プレイヤーはゲームだと思っています。ゲームはミスしなければ成功報酬がもらえます。しかし三上さんは「バイオの報酬は恐怖体験だ」と明確に意図し、それを裏切りました。

 プレイヤーは混乱し、恐怖を覚え、ゾンビが嫌いになります。ゾンビと出会うたびにおなかが重くなり、角を曲がるのも扉を開けるのも嫌になります。その恐怖の塩梅は多くのプレイヤーの心をつかみました。

 もうひとつ構造上素晴らしいのは、ゲームに裏切られたプレイヤーの心情と、人間相手には強力な戦闘力を発揮するはずの特殊部隊員がなす術なく追い詰められる展開がシンクロし、プレイへの感情移入と没入感が高まりやすいところです。

 自分はこのときから「ゲームと体験」について深く考えるようになりました。最先端のゲームには、ゲームとしての正しさや美しさよりもプライオリティの高いものがある。

 俺はこれらを「世界体験ゲーム」と呼んでいます。世界体験ゲームは 3D 空間の質感や光源の表現、AI や自動生成など、世界を作り出すためのさまざまな技術革新なくして生まれなかったジャンルであり、世界体験に軸があるゲームの特徴は「表現は最新技術でもゲームシステムには枯れたものを採用する」というものがあります。基本的には、ですが。

 ハイエンドなゲームにおいて FPS のような枯れたシステムの採用がなぜ多いのかと言えば、世界体験以前にゲームシステムの理解に時間がかかるとプレイヤーにとってめんどうが多いからです。映画を再生するたびに独自規格があり、その都度マニュアルやチュートリアルが必要だとしたら観る気はなくなるでしょう。

 少なくとも世界体験型ゲームにおいて、必ずしもゲームシステムと呼ばれる体験の再生規格に斬新さは要らないのです。水平思考すべきポイントは「価値ある世界体験(単純な遊び心地やごっこ遊び体験とは意味が異なる」であり、ゲームシステムはその都度提供される(したい)体験にふさわしい、こなれたものを採用すればよいのです。

 いま、ゲームはハードとソフト両面の技術革新により、過去のゲームというくくりを超えています。

 もはやゲームはゲームではなく、エンターテインメントそのものです。

 システムは古い。勝敗がない。ゴールもわからない。しかし新鮮でおもしろいコンテンツ。スマホなどではよく見かけるんじゃないでしょうか。これらを古いゲーム論でくくろうとしたら大やけどをします。

 新規性のある体験、価値のある体験を具現化するために、安定した枯れた技術で固めてゆく。これがいまのゲームをとらえる上で重要なのかなと思います。

 まずは情報を疑え、という教訓では間違いをはらむかもしれませんが、今後のゲームデザインについては「枯れた技術の水平思考を常に水平思考せよ」ということです。